第4回 シューベルトのウィーン                  1997.9.30

   

 今年は、「歌曲王」と言われているシューベルトの生誕200年で、様々な催しが行われています。と同時に、シューベルトの生まれたウィーンが、クローズアップされています。音楽の都、ウィーン。ハプスブルク王朝の都、ウィーンは、ヨーロッパきっての音楽の都で、ヨーロッパの音楽家たちは、皆、このウィーンで成功することを夢見たのでした。ウィーンで活躍した作曲家は多く、中央墓地には、ベートーヴェンやシューベルトを始め、多くの作曲家が眠っています。この中で、シューベルトは、唯一の生粋のウィーンの作曲家です。シューベルトは、ウィーンに生まれ、生涯のほとんどをウィーンから出ることがありませんでした。

 日本ではウィーンに、特別大きな憧れがあるように思われます。ウィーンのケルントナー通りなど華やかな目抜き通りには、「人も歩けば日本人にぶつかる」と言えるほど日本人観光客が溢れています。有名レストランやワイン・ケラーも日本人でいっぱいです。国立オペラ座や、楽友協会ホールなどのコンサート会場には、日本人の聴衆が沢山いて驚かされます。

 ウィーンと言えば、昨年の3月に訪れた時のささやかなエピソードを、いつもなつかしく思い出します。零下10度を超す寒い日でした。雪のちらつく早朝、私は、バスを待っていました。隣には、私と大して年格好の違わない婦人が、新聞を読みながらバスを待っていました。ベートーヴェンが遺書を書いたことで有名なハイリゲンシュタットにも近い、ウィーンの郊外でのことです。大学生と思われる青年が、庭に咲いたのであろう小さな水仙の花を手にして、息を弾ませてやって来ました。私の隣りにいた婦人は、青年と何やら話をしています。やがて青年は、はにかみながら新聞で花をくるみ、バスを待つ列に加わりました。私は、彼女に、どうなさったのですかと尋ねました。「この寒さで、せっかく咲いた水仙が可哀想なので、新聞にくるみなさいねと話したのです。」と彼女は答えました。

 観光に賑わうきらびやかなウィーンとは異なった、その昔シューベルトたちが活躍した頃と変わらぬ静かなウィーンがそこにありました。生涯、富や名声、恋人にさえ恵まれることなく、友人たちに愛され、友人たちの中で心のままに作曲したシューベルトが、私は本当に好きです。シューベルトを弾くとき、私の心は音楽の泉でいっぱいになるのです。10月2日イズミティ21で、「美しき水車小屋の娘」全曲、10月31日青年文化センターで、「冬の旅」全曲の演奏会を致します。

第5回目 異文化を学ぶ                    1997.10.7

                           

 今年の夏は、3つの異文化を、それぞれその道の最高峰と言われる方々から、直かに学ぶことの出来た、特筆すべき夏となりました。まず、8月初めに佐賀市で、ヨーロッパ最高の合唱指揮者の1人と称される、ウグリン・ガーボル氏の指揮で、ヨーロッパのルネサンスとハンガリーの3大作曲家、リスト、バルトーク、コダーイの合唱曲を歌いました。8月の終わりには、「ブルガリアン・ヴォイス合唱団」のソリストを長年務めた、ジフカ・ストイコヴァさんに、ブルガリア民謡のワークショップをしていただきました。9月には、仙台市の公演で聴衆を熱狂させたばかりの、バリ島タガス「グヌンジャティ歌舞団」のメンバーの方々から、ケチャとガムランを学びました。

 ウグリン氏の指導では、ヨーロッパの様式やハーモニー感などが、「これこそがヨーロッパの音楽伝統だ」と、目から鱗が落ちるような思いで納得されたのです。棒の一瞬一瞬が生み出す完璧な音程とハーモニーの中に、本物だけが持つ緻密で自然な音楽が豊かに流れ、幸せな気持ちで心がいっぱいになりました。

 ブルガリア民謡による女声合唱は、ブルガリアン・ポリフォニーとも呼ばれ、近年、我が国でも愛好者が増えています。ヨーロッパにありながら、トルコの影響を強く受けた複雑なリズムや、民謡の歌い方を生かした金管楽器のような響きを持つハーモニーは、心を揺さぶります。ステージではなく間近に聴くブルガリア民謡は、本当に自然且つ素朴、人生そのものの歌でありました。ブルガリア民謡独特の7拍子や11拍子は、皆で楽しく踊る習慣を持つ人々のリズムで、日本人には、到底まねのできないリズムです。しかし、出来なくてもジフカさんと一緒に踊ると、踊りを止めたくないほどに楽しいのです。

 バリ島のケチャとガムラン。私は今回、36名のメンバーの方々の輪の中で一緒にやってみて初めて、バリの人々の芸能によせる心と言うものが、本当に理解できたような気持ちがしました。バリの人々にとって、芸能は個人の楽しみではなく、神によって行い、神に捧げるものなのです。バリの人達は、力みのない自由で自然な身体と心をもって、誇り高く神々しく、実に楽しく芸能を行うのでありました。

 芸能の心は書物からではなく、手から手へ、心から心へと直に伝えられて初めて本当にわかるものです。最高の担い手によって直に伝えられる文化は、学びの難しさを越えて、例えようもない楽しさを与えてくれます。国際化の時代は、手を伸ばしさえすれば、この様な至福の体験を得ることを可能にしたのです。本物は、どれもシンプルで、自然で、誇り高く香ります。しかし、受ける側に充分な準備と真摯で謙虚な学びの心がなければ、この喜びは成立しません。私達日本人は、果たして、誇り高く、喜びに溢れて伝えることのできる、自分たちの文化といえるものを持っているでしょうか。

第6回目 残響、お国柄                  1997.10.14

                            

 残響は、クラッシック音楽の場合、命綱とでも言うべき大切なものです。残響は、聴衆として聴くよりも、演奏家として一番よいポイントを探しながら聴く時、最もその特徴が感じられるように思います。

 宮城にも、中新田に響きのよいバッハ・ホールがあります。私の住んでいる福島市に音楽堂が建てられた時、「空席時、残響3秒」は大変評判になり、ブーニンを始め、多くの演奏家が気に入ってレコーディングの会場として用いたものでした。私たちも、ステージの上で歌うと、まるでお風呂で歌っているような快感があって、すっかり感動したものです。

 ハンガリーには2度、演奏旅行に参りました。ハンガリーの残響は、お風呂のようにはならず、あくまでも自然で清潔に澄んでいます。自分や隣の声が本当に安心できるようにクリアに聴こえて、なおかつ、聴衆に音楽を美しく届けるのです。ヨーロッパの中の唯一のアジアの民、マジャル民族の音に対する感覚でしょうか。ハンガリーの残響は、演奏家と聴衆の両者に本当にやさしいと思います。この中で歌っていると山の源泉から清水が流れ出すような音楽の喜びを感じるのです。

 アムステルダムの残響は、非常に厳しいものでした。ポイントが狭く、より美しく響かせるのではなく、あるものをそのまま飾りなく響かせます。ごまかしが許されず、襟を正させられるような思いがしたものです。しかし、一旦慣れると、それはまるでアムステルダムの人々のように虚飾なく、安心して深く信頼できるのでありました。アムステルダムの人々は、自立して無駄がなく、必要なことをきっちりとこなし、全くお節介な所がありません。小国にあって、ヨーロッパの厳しい歴史を生き抜いてきた人々の歴史から来るのでしょうか。個人の本当の豊かさというものを、知的に守りあっているように感じられます。

 マニラで私たちの演奏会場となった、フィリピン文化センターの残響には驚きました。細かな木枠に全部網がはってあって、完全に素通しというか、ものの見事に全く残響がありません。音楽は、PAを入れて聴くということが前提になっているのでしょうか。これらの印象は、幾つかの国の幾つかのホールでの体験にしか過ぎませんが、しかし、残響1つとっても、その国の歴史や文化の有様、そして考え方や音の好みが反映されていることは、興味深いことです。一方、アジアは、残響を全く必要としない屋外の音楽、民族音楽の宝庫です。生活空間から遮断した静寂の中で、残響を命綱として厳密に奏でられる西洋音楽。虫の音や鳥の声、バイクの音や人々のざわめきとさえ共存して楽しまれる民族音楽。私達は今日、何と多様な音楽の喜びを手にしていることでしょうか。