私の住んだ街々、そして文化 ―その2―



  私の二度目のヨーロッパは、長いこと憧れていたハンガリーで、二人の幼子を残しての九ケ月の留学だった。飛行機の座席で子どもを思って、涙が止めどなく流れた。以来毎年、約一カ月半、ハンガリーで研鑽を重ねた。新幹線のホームを子どもたちは走って追いかけた。座席で、涙が止まらない。何故私は、こうしてまで、ハンガリーに勉強に行くのか。                                     
 
 何という業。母親が勉強したいと切望することは悪だ。私は、いつもその罪悪感を胸に海外に出かけた。だから学んだものを必ず役に立てようと必死だった。母親がしたいことをもつということは、そういうことだ。
私が留学したのは、チェルノブイリの原発事故から数か月後。牛乳や野菜など食べ物に放射能が含まれていると心配された。後に、福島にそれを上回る原発事故が起ころうとは。
当時、ハンガリーは、社会主義圏の国で、自由が無く、人々は自由に飢えていた。子どもたちさえも、沢山の質問をもって道で声をかけて来た。日本はどんな国ですか?自由ですか?と。
子どもたちは、深く大切にされていた。子ども用のテレビは、夕方の番組のみ。金曜日の午後は、テレビは、お休みだった。ラジオで子どもだけのトーク番組が定期的に放送されいて、子どもたちは、実に闊達に想像の翼を広げて話し合っていた。 

 子どもは、学校で先生を「先生」とは呼ばずに、皆、愛称で呼んで、尊敬の念を持ちながらも、大人と対等に話し合っていた。大人も子どもの人格を大切に向き合い、一方的に命令をせず、子どもたちは、とことん分かるまで先生に質問をしていた。ハンガリーでは、当時は、女性はみな働いていて、子どもたちは保育園だった。保育園の環境は清潔で美しかった。わらべうたを遊び、保育士のお話や民謡を聴く子どもの姿は素敵だった。今、時代は大きく変り、日本では、小中学生の自殺が報道されている。子どもが幸せに生きることのできる日本をとり戻したい。