総合的な学習と音楽科
 
はじめに
 音楽は、もともと教科横断的な内容を包含している。メロデイー、リズム、テクスチュア(重なり)という音楽的な要素に加えて、歌の場合は歌詞があり、これは国語科に属す。外国の歌の場合は、歌の背景の理解が必要だから、社会科の学習も関わる。身体を使った動きを伴えば体育科だ。歌詞の情景を思い浮かべ表すとなれば、図画工作科にも属す。楽器作りなれば、音の仕組みを理解する理科に関わりをもつし、作る過程は技術工作だ。そもそも音階や音楽を表す5線譜の仕組みは、算数の考え方から来ている。鑑賞で音楽の背景などを扱うと、地理や歴史に関わる。音楽劇を行えば、歌うことに加えて台詞の表現を工夫する劇と同一だ。しかし、このような表層的な捉え方はまだ音楽の本質を捉えた考え方とは言えない。
 古今東西、人々は収穫を祈願し、病や天災を恐れ、音楽は神に捧げる人間の根源的な祈りとともにあった。巫女やシャーマンなどは、今日も歌や踊りなどを用いて神がかりとなり、神との交信を行って、民の祈りを捧げている。素朴な祈りが宗教となっても、音楽は宗教儀式の中で、重要な位置を占めている。祈りの言葉そのものが、メロデイ―とリズムを持っている。それらは、多くの場合、時折打ち鳴らされる鳴り物を伴って唱えられる。宗教の儀式に音楽はつきものである。
 一方、昔から母親は、赤子を泣き止まらせたり、眠らせるときに子守唄を歌ってあやし、子ども達は、誰から教えられるでもなくわらべうたを歌い遊んだ。このような事実に目を向けるとき、音楽が如何に人間にとっていかに根源的なものであるかに思い至る。今日、音楽は限りない発展を遂げ、商品化され、グローバル化し、人類は、あらゆる民族の多種多様な音楽を聴き、歌い踊って生活を豊かにしている。それらに目を向けるとき、同じ音楽と言うカテゴリーに入るとは言うものの、それぞれがどれほど異なっているかということに驚きを禁じえない。
 音楽は表層的に歌や楽器演奏などと狭く捉えることなく、人間生活の全てに関わる活動として総合的に捉えることによって、初めて本来の姿を現す。その意味で、地球上にある多種多様の音楽を扱う総合的な学習は、やりようによっては子ども達の目を世界の人々の暮らしや人々の心の理解、すなわち今日最も求められている異文化理解の課題へと導き得るのだ。それはやがて国際理解や環境問題に対する意識、平和への希求や福祉問題への意識を育て、結果として未来を主体的に生きる力を育むと考えられるのである。今日求められているのはこのように音楽を文化として根本から総合的に捉える意識の改革と、総合的な学習として音楽の扉を開け、そこから子ども達を人間生活全般に関わる問題認識へと導くことのできる指導法の研究なのである。

1. 国際理解としての音楽教育
<アフリカの女性達の作業する姿の写真、インドネシアのガムランの演奏・バリ舞踊の写真)
 国際理解という用語を音楽科としてどのように理解していくべきであろうか。それは地球上に生活する様々な民族の互いの文化や心の理解を意味していると考えられよう。
21世紀に入り、大型コンピューターの発達、通信衛星を用いたテレビの同時中継、インターネットの一般化などによるIT情報化時代を迎え、情報は一瞬の内に世界を駆け巡り、地球は1つに結ばれた。しかし、これ程情報を共有するようになったのにもかかわらず、民族間の憎しみはかつてないほど増大し、各地で悲惨なテロや戦争が起こっている。この状況の中で音楽科は、一体何ができるのだろうか。何をしなければならないのだろうか。
音楽は、文化の中でもより直接的に民族の生活や民族の心を現している。従って、民族の歌を歌い踊り、その楽器を奏で、その音楽を聴くということが、最も直入に深く民族の心を理解することにつながり得ると言えよう。
かつて音楽教育では、音楽を生活や背景と切り離して、表現のための技術や知識を教えることが一般的であった。しかし今日、音楽は文化の一部であって、その背景を切り離しては理解することも表現することもできないというこが認識されるようになった。声の出し方や楽器の音色は、民族の言語や自然や生活から生まれている。メロデイーの基盤にある音階には、それぞれの民族の音楽観が象徴され、西洋音楽のピアノに代表される7音階とは異なって微妙かつ多様である。音の重なりにしても西洋音楽の機能和声に代表される重なりは、非常に特殊である。また、多くの音楽は西洋音楽のように純音楽として、音楽がその他のジャンル、踊りなどと切り離されて存在することも、むしろ特殊である。民族が何を信じ、何を大切に思い、何をどのように楽しむかということは、音楽に反映されている。
音楽を伝えていく伝承の方法にも、その根底には民族の哲学や音楽観がある。かつては、たった1つの考え方や方法で、つまり西洋音楽の音楽観や西洋の5線譜を用いて全ての音楽を理解しようとしてきた。しかし、このような考え方は誤りであること、そしてそれらの違いにこそ民族の音楽の特徴があることが明らかになった。21世紀を迎え、音楽教育は、それぞれの多様性を尊重し、まるごとその民族のやりかたで表現活動を行い、その際、その背景となる生活習慣や民族の歴史や心を理解することに努め、それら手がかりとして、子どもが主体的に民族の心やその文化の理解に向かっていくことを目指していかなくてはならないだろう。最後の目標は、共感であることは言うまでもない。
文化をその伝承者から直接に、本物の楽器を用いて学ぶことが最も大きな教育効果を与える手立てだ。国際化が進んだ今日で、もし少しの努力を惜しまなければ、文化の伝承者から直接に学ぶチャンスを作る事は、それほど難しいことではなくなった。これらのことを通して初めて民族の文化や心を理解することが可能となり、音楽教育は国際理解に貢献することができるだろう。

2. 環境教育としての音楽教育
<写真、宇宙衛星から撮った地球の写真。>
 20世紀後半には、増えつづける核の脅威にさらされた地球は、温暖化や酸性雨などによって、さらに厳しい状況を迎えた。20( )何年には、地球の温度は平均(  )度上がり、海面は(  )メートル上がり平方メートル水没するだろうと予想されている。暮らしを支える電気の使用量は、10年前の 倍と増大し、地球上では原子力発電所が(  )倍となっている。原子力発電所やその廃棄物の処理については、いまだその安全性に論議がわかれているところである。(  )年にはアメリカのスリーマイル島での事故、1985年にはロシアのチェルノブイノの原子力発電所が凄まじい事故を起こした。
このような環境破壊は、地球上の生物に大きな影響を与えている。(  )年前に比べて、 種の生物が絶滅し、(  )種が絶滅の危険に瀕している。
日常生活の中にも環境を破壊する要素が深く入り込んでいる。米や野菜は、化学肥料や農薬づけ、食品には保存料、色素など化学物質が溢れ、シャンプーや洗剤などにも分解されない合成洗剤が用いられている。
移動に用いられる航空機、列車や自動車は、限りなく生産を増大させ、排気ガスは地球をとりまく大気を汚染し、その騒音は人々の生活環境を脅かしている。
 このような状況は、目先の便利さを追い、自然や環境との調和を考えることがない暮らしにある。音楽教育は、この状況に如何に応えることができるのだろうか。
 どうしたら、子ども自身が進んで環境について考えるようになるだろうか。環境を考え、環境を守るという行為は、まさに主体的で総合的な営みである。本来的に総合性をもつ音楽科としての環境教育を考えみよう。
 昨今では年中一定の温度に管理されているマンションなどで、自然の季節感から切り離され、季節に関係なく生産される食物を食べ、テレビやコンピューターなどバーチャルな環境に生活している子ども達も多い。そのような実体験の乏しい子ども達をまず、外に、自然の中に連れ出すことが大切だ。今一番求められるのは、自然の中での生きた体験だ。今日では子ども達を囲む音もまた、CDやテレビ音など、自然な音は極端に少なくなっている。
子ども達には、まず、戸外に溢れる様々な音に耳を澄まして聞かせたい。環境にある様々な音に注目させ、その全てを心に記憶させ、記録させてみよう。それらの音の特徴に注目させ、声を使って模倣させ、動きでその感じを表現させてみる。自らの身体を使って表現するということは、そのことについて深く考えるということを意味する。その後、心に気持ちのよい音と、不快な音とに分類させてみよう。子ども達はどのような音を発見し、どのような音を気持ちの良い音と認識し、どのような音を不快な音と感じるのだろうか。
  子ども達を取り巻く音は、都会や農村、漁村、工場地帯などで大きく異なる。しかし子ども達はそれらの環境の中にある様々な音の中から気持ちの良い音と不快な音を発見するだろう。音には匂いも含まれている場合が多い。小鳥の声や虫の音には、森の香りや花の香りも漂うかもしれない。或いは、同時にせせらぎの音も聞こえるかもしれない。音は耳にだけ届くのではなく、子ども達は同時にさわやかな緑色の木々の姿も目にしているのだ。また環境の中にある音は、単独であることの方がむしろ珍しい。新緑に萌える木々で歌う小鳥の声と自動車の騒音、排気ガスの臭い、どぎつい原色に彩られた広告の乱立などを同時に目にすることも多いはずだ。環境は、五感に全てに働く。
 心地音と不快な音、心地よい臭いと不快な臭い、心地よい色と不快な色の感じ方は、子ども達によって異なっている。何故、ある種のものは心地よく、またある種のものを不快に感じるのか考え合ってみることは大切だ。五感を働かせて聞き取り感じた音や臭いや色が、どのようにして作られたかも考えさせたい。森の中で、樹々がどのように成育しているか、樹々の下では小さい野草たちがどのように育っているか、泉はどのようにして川となって流れているか、川にはどのような生物が生活しているか木樹々にはどのような動物が生活し、小鳥がどのように成育し、それらはどのような音や臭いや色を出しているか、このように環境を見つめ、感じ取り、考えることが音楽科における環境教育の第一歩だ。
 初めから化学調味料の強い味付けの食べ物を食べている子どもは、自然なうまみを美味しいとは感じない。初めから大きな音量で刺激の多いテレビやCDなどの機械音を耳にしている子どもにとって、自然に存在する様々な音に注目する体験は実は異文化体験だ。臭いや色も同様だ。教師はファシリテイター、水先案内人として、子ども達が本来持っている、まだそれほどには汚れていない、繊細な感性を呼び覚まさせる最大限の努力をしたい。
主体的に感じ取ることができた時、子ども達は初めて、人間が自然の中で環境と調和し、他の生物達を共存していくことを考え始まる。そしてそのためにしなければならないこと、してはならないことを考え始めるだろう。
 環境教育とは、主体的に行動するための教育だ。身の回りにある音環境をより心にやさしいものに変えていくこと、環境の中に、沈黙を大切に位置付けること、これらのことをまず子ども達に気づかせることから始めよう。
   
3. 平和教育と音楽科
<ヒロシマ原爆ドームの写真、アフガニスタンの空爆の写真)
 21世紀の始めにニューヨークで起こった9.11同時多発テロ事件は、その後の国際社会のあり方を大きく変えた。アメリカの攻撃目標となったアフガニスタン、イスラエルのパレステイナ侵攻など、地球の各地でテロや戦争状態が続いている。かつては戦闘員が戦った戦争も、今日では子どもが戦闘員として借り出されている。また、無差別な裂りくや場所を問わない地雷などの兵器によって、幼い子や一般市民が昼夜を問わず殺されている。
 では、地球上に平和をという願いは消えてしまったのだろうか。そのようなはずはない。音楽科はこの最も重要な平和の問題と如何に関わることができるのだろう。
 考えなければならないのは、戦争を決定するのも、行うのも人間だ。高等哺乳動物の猿人類は戦争をしない。人間は、戦争によって地球を汚染し、環境を破壊し、他の生物をも大量に裂くりくする。
 音楽は、人間にとって言葉に次ぐ第2の言語であると言われる。この第2の言語は第一の言語、言葉よりも強く深く情動に働きかけ、強く作用する。国が戦争を行うためには、国民を戦争へと駆り立てる必要がある。1936年に勃発した第二次世界大戦の際、ドイツのナチスは、ドイツ国民を鼓舞するためにベートーヴェンやワーグナーの音楽を利用した。日本では、敵対国であったアメリカのジャズなどの音楽を禁止し、庶民の愛好した流行歌を軟弱なものとして排斥した。同盟国であったドイツの音楽も、人間の愛やヒューマンな気持ちを呼び起こし、戦争へ駆り立てる心を萎えさせるところから、戦争の中期には禁止されたのである(法律名   年)。音楽家は、人間に与える音楽の影響の深さの故に、いやがおうでも戦争に巻き込まれざるをえなかった。作曲家は、国民を戦争に駆り立て、士気を高める軍歌の作曲した。子ども達には軍歌の子ども版<僕ら日本の小国民>といった子ども版の軍歌が作曲された。今、軍歌を見てみるとき、例えば<海ゆかば>などには戦争を鼓舞するよりも、悲しみに溢れた情感が濃く漂っていることに音楽家の感性を見る思いがする。
 一方、音楽家は戦争犯罪に激しい怒りを覚え、多くの死者を悼む作品を残している。ポーランドの作曲家ペンデレツキ(    )の<ヒロシマに捧げる哀歌>(  年作曲)は、太平洋戦争末期に人類が最初に洗礼を受けたヒロシマへの原子爆弾による悲劇をあますことなく表現している。2002年に生誕100年を迎えたドイツの映画俳優マレーネ・デートリッヒ(   )は、ナチスに反対し、祖国を捨ててアメリカに亡命し、アメリカの兵士を慰問する活動を続け、祖国から売国奴の扱いを受けた。彼女の歌った<リリー・マレーン>は、兵士を深く励ました反戦歌として歌い継がれている。ベトナム戦争時(   年から   年)には<花はどこへ行った>(ピート・シーガー作曲   )が生まれ、世界の各地で歌われた。
 戦争と音楽は深く関わっている。音楽は、人の思考を麻痺させる麻薬のような側面ももっている。音楽科は、音楽のそのような力を廃し、繊細な感性で平和を脅かすものを拒む心、戦争の臭いを過敏に感じ取る心、ヒューマンな人間愛を歌う歌を大切に思う心をこそ育てていかねばならないだろう。
 平成10年度の改定によって、学習指導要領には小学校も中学校も共通鑑賞教材が廃された。子ども達の心にあらゆる戦争や戦争のきっかけとなる差別を憎み、平和を希求する心を育てる作品を聴かせ続けていくことを、教師は努めなくてはならない。 

4. 福祉教育と音楽教育
<老人ホームで音楽療法で楽器演奏して楽しむ高齢者の写真>
 日本は、世界に例を見ない速さで、世界一の高齢者社会を迎えた。(  )年現在、女性の平均寿命は(   )才、男性は(   )である。日本の社会は、この状況に対応できておらず、介護の問題は大きく、高齢者が豊かに人生の終末を迎えることには困難が多い。一方高度に発達した工業社会である日本では、薬害や交通事故によって、人生の途中で障害を持つことも多く、誕生の際、障害をもつことも増加している。また、今日、あらゆる年齢層で、心の病は多発している。こうして障害者と健常者の境は、日々あいまいなものになりつつある。
 このような中で全ての人が、音楽によって豊かに生きるために音楽科は何ができるだろうか。1つは、音楽の治療的側面を生かした音楽療法の活用が考えられよう。1920年来(年代を確かめること)音楽療法は、イギリス、ドイツ、アメリカなどで大きな発展を遂げた。即興演奏を中心とする音楽療法は、自閉症のような精神障害や(  )による精神障害、発達障害による言語障害、ダウン症児などのコミュニケイション障害などの、精神的な障害に、音楽療法は多くの効果をもたらすことが実証されている。
 また、痴呆症の高齢者に対しても音楽療法は、多くの効果をもたらす。痴呆症を抱えている高齢者も、幼い頃、或いは若い頃覚えた歌は覚えている。それらを歌ったり、楽器の伴奏を伴って歌い、動くことは、痴呆症の高齢者の脳を活性化させ、大きな喜びを与え、無気力であった高齢者に積極性を取り戻すことが報告されている。音楽療法の効果や、その実施方法などについては、今後の研究成果を待つ部分も残されるが、音楽科としては、教育の場における積極的な音楽療法の研究と活用が求められていると言えよう。
 2つ目は、生涯教育と関わって、生涯に渡って音楽を主体的に楽しめる環境つくりが求められよう。中年年齢層による、若いときにできなかったピアノやバイオリンなどのお稽古が近年静かなブームとなっている。また、学生時代に楽しんだ、合唱や吹奏楽、アンサンブルといった活動がもっと行いやすくなるために、自治体などによる安価な練習場所の設置など、積極的な環境の整備も必要であろう。社会の中で、聞く一方の受動的なものではなく、主体的に取り組む音楽活動、仲間とともにコミュニケイションする音楽活動が広がるために、音楽科はより生涯学習の視点を持た教育が求められている。
 3つ目には、音楽家が、参加型の多様な質の高いコンサートを地域で数多く開き、農村・都会の別を問わず、生活の場に生きた音楽を享受できる場を作っていくことの大切さである。音楽科が先頭にたって、人々がゆりかごから墓場まで、主体的に音楽とともに人生を豊かにしていこうという意識革命を起こしていく必要があるのではないだろうか。